墨蘭図(雪窓普明・画、頂雲霊峰、文信・賛)ぼくらんず せっそうふめい ちょううんれいほう ぶんしん

  • 中国・元時代
  • 14c
  • 紙本墨画

 本図は画蘭の名手として知られる僧、雪窓普明の弟子で、詩を加える日本僧、頂雲霊峰が描いたとされる。頂雲は雪窓の作風を忠実に祖述している。一部補筆が認められるが、中央を占める蘭の大部分はそれを免れ、ゆったりと風に靡く蘭葉は、つけたて風の濃淡を見せるが、一筆ではなく筆を重ねて仕上げられている。本図と近似する墨蘭図がオバーリン大学アレン・メモリアル美術館(アメリカ・オハイオ州)に収蔵されている。

 本図については、すでに李鋳晉、海老根聰郎両教授の論考があり、元時代、画蘭の名手として知られた僧、雪窓普明の作ではなく、その弟子で、本図に詩を加える日本僧、頂雲霊峰が描いたとする説が有力である。
 頂雲は嘉暦元年(1326)に来朝した清拙正澄の弟子で、その後入元して、14世紀の中頃、蘇州に滞留して活動していた日本人画僧である。義堂周信「空華日用工夫略集」巻二の巻末追抄の部に、「無二日、----近代画蘭明雪窓弟子、則浩霊江・峰頂雲、日本人也」という入元僧、無二法一の帰朝談があり、中国で頂雲が雪窓の弟子になっていることがわかる。また模本によって頂雲の作風は雪窓を忠実に祖述したものと推定されている。
 本図は、一面に折れじわ、剥落があり、特に笹葉等には点状に濃墨の補筆は加えられ、元来の画目をやや損じている。ただ幸いなことに中央を占める蘭の大部分は後人の筆を免れている。ゆったりと風にたなびく蘭葉は、つけたて風の濃淡を見せるが、一筆ではなく、二筆、三筆、筆を重ねて仕上げられているようである。土坡と小岩は飛白風にかすれた筆で括られる。雪窓の宮内庁本四幅の蘭と比較すると、その巧緻な技法を棄て去り、典雅な風韻をのみ留めようとする意識が見て取れる。
 問題となるのは、頂雲が詩後に付記する「配于雪窓墨妙」の語句の解釈で、一般には雪窓の絵に頂雲が詩を加えたと考えるのが自然ではあるが、雪窓とするにはやや作風が異なり、推定される頂雲の作風に符号するからには、海老根教授が推察されるように、頂雲の仮託に出るものか、あるいは別に雪窓の絵があって、それに自身の絵を加えたと考えざるを得ない。
 本図の左半分と構成が近似し、同じく頂雲の至正8年の題賛を持つ墨蘭図が、アメリカ・オハイオ州のオバーリン大学アレン・メモリアル美術館に収蔵されている。詩句は類似し、付記の字句も、用堂に替えて重宝とする以外、同文である。
 重宝は法諱を堅斎と呼ぶ日本僧で、清拙正澄の弟子である。用堂もまたその弟子と思われ、蘇州に留まる頂雲は、日本にいる同門の兄弟子2人に対し、同時に墨蘭図を描き送ったようである。但し、李鋳晉教授によれば、オバーリン本は、頂雲の原画を室町時代末の画家がコピーしたもので、江戸初期に切断されたかとみなされている。
 道元文信は浙江永嘉出身の僧で、元末、蘇州西南の石湖にある禅寺、宝華寺に住し、頂雲とも往来があったようである。題はこのおり頂雲の求めに応じて加えられたようである。後に彼は日本に来遊したともいう。

<参考文献>
・玉村竹二「僧伝小考三題」(「禅学研究」57号、また「日本禅宗史論集」上 所収)
・海老根聰郎「頂雲霊峰について-禅宗画僧と文人画戯」、「鈴木敬先生還暦記念 中国絵画史論集」(吉川弘文館 1981)
・Chu-tsing Li, "The Oberlin Orchid and the Problem of P'u-ming", Archieves of the Chinese Art Society of America 16

書き下し

<頂雲霊峰題>
□水兮清冷冷
□草兮碧青青
我或吟兮惟独醒め
胡滝留兮于蘇城
至正戌子春、配于
雪窓墨妙、遠寄
用堂法兄老師、
以為清玩者也、寓
中呉北山眷末霊峰   「峯頂雲印」「住歓喜地写無声詩」(共に朱文方印)

<道元文信題>
白石□篁照紫苔、好
華無数為誰開、繋
船三日湘江上、愛殺幽
香月夜来
  宝華文信為
  用堂題      「文信道元」「福鼎樵者」(共に朱文方印)