猛禽文様杯もうきんもんようはい

  • イラン西部
  • 紀元前14-紀元前13世紀
  • エレクトラム
  • H-12.1 D-7

誇らしげに歩くこのような鳥の姿は、前2千年紀後半のメソポタミアの美術にはほとんど類例のないものである。メソポタミアでは、猛禽類は家畜と一緒に紋章のように対称的な配置で描かれるのが一般的であった。しかし、カスピ海の分水嶺の南西地域に位置するマルリク遺跡の32号墓からつぶれた形で発掘された金製鉢には、大股で歩く鳥が描かれている。この杯の猛禽類は、その姿勢とがっしりしたプロポーションがマルリクの鳥と共通している。しかし、マルリクの鳥の方が技術的にはより進歩しており、頭は丸彫りで仕上げられて、外側を向いている。この杯はもっと簡素でそれほど洗練されていないので、マルリクの鉢よりも時代がさかのぼると思われる。

イラン民族の登場とその時代

紀元前二千年紀中頃より一千年紀初期にかけて、インド・イラン系民族の北からの移住がおこり、バクトリア地方、カスピ海東側を経由して、東イランやカスピ海の南側へと広がっていったものと考えられています。

この頃イランの西ないし北西で台頭してきたアッシリア帝国やウラルトゥ王国は北西イランへと侵攻し、この北西イランから北イランにかけては正に文化の坩堝となって行きました。 

嘴形注口容器 注口把手付容器 猛禽装飾杯 人物文様杯 金帯 牡牛装飾脚杯 羚羊(ガゼル)文様皿 双獅子形容器 ペクトラル(胸飾) 施釉壺 精霊と従者浮彫

技法と形態

このエレクトラムの杯は、主に底の部分と胴の部分の二つの大変薄い延べ板によって作られています。

胴の部分は円筒型に丸められ、底の部分は浅い杯型に打ち出し、その接合部分はグラニュレーションという古代技法で接合されていると考えられています。

内側に折り返された口縁は厚めのリボン状の断片を巻き込み補強してあります。

これらはその器底部を丸く帯状に突き出した安定感のある器の形から、カスピ海の南側、北イランのマルリクから出土した器物に近いいわゆる’マルリク型’杯に分類されます。

・Zvigoffer/ Archaeological Chemistory/ A Wiley-Inter Science Publication New York ;
・R.J.Forbes/ Studies in Ancient Technology Vol.VIII/ E.J.Brill 1971;
・P.Meyers/ Ancient Art from the Shumei Family Collection / The Metropolitan Museum of Art 1996

人物文様杯

類例について

このエレクトラム杯は猛禽が上下二段に闊歩する構成で、マルリク出土の金杯の側面に立体的に表現された猛禽の意匠に通じるものがあります。

マルリク杯は猛禽の頭部が立体的に表わされていますが、この線彫で表わされた二重円の目、翼と頭胴部の羽と羽毛の描き分けなど多くの類似点をもっています。

Ezat O. Nagahban/ Praehistorische Bronzefunde-Metal Vessels from Marlik/ Myunchen 1983,5

エレクトラムについて

エレクトラム'electrum'は金と銀の自然の合金のことを指します。金は本来ある程度の割合で銀を含んで産出されるますが、ローマ時代のプリニウス以来その銀の割合が1/5以上である場合エレクトラムと呼ばれるようになりました。

一般的にはエレクトラムが金と銀の合金であるという認識及びその分離技術が発達したのは紀元前6世紀の中頃であると言われています。

またローマ時代のプリニウスによれば、天然のエレクトラムの器は毒味の働きがあり、毒が注がれると虹のような半円形がその表面に走り、ぱちぱちと言う火の燃えるような音をたてるとされています。

あるいはエレクトラムの杯にはこの紀元前二千年紀後半頃の西アジアにおいてもそのような一種の魔除の機能が考えられていたのかもしれません。

古代メソポタミアの疾病に対する魔除けと癒しの儀礼には、しばしば魚の衣とライオンの頭部をつけた人物が登場します。

マルリク出土の薄い金板による器には(Negahban 1983, 5)魚の文様が刻まれ、北西イラン由来と言われるエレクトラムの器(Culican 1965,pl.7)にはライオンの頭部を持った魔物と魚が刻まれています。

このような薄い金あるいはエレクトラムで作られた器には古代の呪術的な癒しあるいは魔除けのならわしにつながる何等かの意味合いが込められていたのではないかと考えられます。

・William Culican/ The Medes and Persians/ New York 1965 , pl. 7 ;
・Horst Klengel/ Handel und Haendler im alten Orient/ 1983 Leipzig;
・Pliny/ Natural History/ XXXIII 81;
・Eric M. Meyers / The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East/ London 1997;
・Erica Reiner/ Astral Magic in Babylonia/ Philadelphia 1995

人物文様杯

エレクトラムの器について

薄いエレクトラム板を使った器は単に打ち出し成型では割れやすいことが予想され、数枚の板で構成されなければならなかったと思われますが、それ以上にこの場合はそれがおそらく埋葬用の儀式用の器であったという関連で容易にこのような技法と結び付いたのではなかったでしょうか。

口縁の仕上げは補強してあるとは言え危ういものがあり、日常の用を目的としていなかったと思われます。更にマルリクや黒海東岸インド・ヨーロッパ系スキタイの遺跡等からも薄い金板やエレクトラムで作られた埋葬儀器が見つかっています。

このことはエレクトラムや薄い金板を儀器製作のために使う何等かの必然性と経済的必要性のあった事が予想される時代の産物としてこのエレクトラムの器を考えさせるものがあります。

この杯が作られた紀元前二千年紀初期頃より南イランのエラムが勢力を増し、東イランを中心とした金資源が西アジアでは入手できなくなり、はるばるエジプトに求めるようになりました。

二千年紀中頃のバビロニア・カッシート期になると、金が交易の支払手段として使われましたが、当時の金と銀の比率は1:9でした。

この情況の中で金に似たエレクトラムの使用が余儀なくされた事も想像されます。

一般的にはエレクトラムが金と銀の合金であるという認識及びその分離技術が発達したのは紀元前6世紀の中頃であると言われていますが、金とは違った何らか特殊な徳を備えた金属として認識されていた可能性もあります。

ローマ時代のプリニウスによれば、天然のエレクトラムの器は毒味の働きがあり、毒が注がれると虹のような半円形がその表面に走り、ぱちぱちと言う火の燃えるような音をたてるとされています。

あるいはエレクトラムの杯にはこの紀元前二千年紀後半頃の西アジアにおいてもそのような一種の魔除(まよけ)のはたらきが考えられていたのかもしれません。

古代メソポタミアの疾病に対する魔除けと癒しの儀礼には、しばしば魚の衣とライオンの頭部をつけた人物が登場します。

マルリク出土の薄い金板による器には、魚の文様が刻まれ、北西イラン由来と言われるエレクトラムの器(Culican 1965, pl.7)にはライオンの頭部を持った魔物と魚が刻まれています。

このような薄い金あるいはエレクトラムで作られた器には、古代の呪術的な癒しあるいは魔除けのならわしにつながる何等かの意味合いが込められていた可能性が考えられます。

・William Culican/ The Medes and Persians/ New York 1965 , pl. 7 ;
・Horst Klengel/ Handel und Haendler im alten Orient/ 1983 Leipzig;
・Pliny/ Natural History/ XXXIII 81;
・Eric M. Meyers / The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East/ London 1997;
・Erica Reiner/ Astral Magic in Babylonia/ Philadelphia 1995

人物文様杯

ライベイション

メソポタミアには潅奠(ライベイション)という液体を注ぐ宗教的儀礼が古くからありますが、井戸の冷水、聖水が神々に捧げられました。

南メソポタミアのバビロニアでは、死者に対する潅奠は水のみが使われたようです。更に、メソポタミアの神話には「生命の水」を捧げる話が見られます。

また神々には酒が捧げられる事も多く、ミルク、蜂蜜、油あるいはクリームが伴う事もありました。

灌奠にあたって、液体は祭主のまわりの地面に杯、椀、瓶などから注がれましたが、その器はしばしば金銀など高価な材質でつくられました。

あるいは犠牲の羊の頭、川、泉、または第二の器や門戸などにも注がれました。

嘴形注口容器 猛禽装飾杯 人物文様杯 牡牛装飾脚杯

グラニュレーション

粒金と金線の細工は古くは紀元前三千年紀メソポタミア・ウルの王墓にみられますが、とりわけエジプト第18王朝トゥトアンクアメン、第19王朝ラムセス二世の王墓からは類似の金線と粒金細工を組み合わせた宝飾品がみつかっています。

またこの帯と同時代のメディアのものとされる金のメダイオン及び犠首にも同様の技法が見られます。

この粒金法(グラニュレーションgranulation)と呼ばれる古代技法は

1.あらかじめ等しい大きさに刻んだ金板の小片を融解点まで熱し、金の小粒を作る。

2.水酸化銅と有機物の混合した糊を使い、1.の小粒を装飾すべき金の表面に接着し、文様を作る。

3.これを金の融解点以下に熱すると有機物は酸化し炭化され、水酸化銅を還元して金板の表面と粒金の表面を銅の点状のはんだで接合することとなる。

この技法は紀元数世紀のうちに消滅し、今世紀後半になって「発見」され復元されました。

・Christiane Desroches Noblecourt/ Tutankhamen/ 1963 New York Pl. XXIa;
・ William Culican / The Medes and Persians / 1965 New York; ・K.R.Maxwell-Hyslop/ Western Asiatic Jewellery c.3000 -612B.C./ London 1971;
・7000 Jahrre Kunst in Iran / 1962 Essen ;
・Carol Andrews / Ancient Egyptian Jewelry / 1990 London

人物文様杯 金帯 牡牛装飾脚杯

Catalogue Entry

The shape and proportions and even the reinforced rim of this beaker resemble those of the vessel discussed in catalogue number 21. This beaker is also made in two pieces, the cylindrical part and the bottom. The outside of the beaker is decorated with two rows of raptors, or birds of prey: Those in the upper register face toward the viewer's right, and those in the lower row, to our left. The forms are rendered in low relief, raised only slightly from the plain ground. Each bird has a hooked beak as well as a large, round eye, that is set amid a scale-like feather pattern, which covers its head, body, and upper legs; the square tail and the tapering wings are carefully rendered with long, slender feathers. Roughly crosshatched areas indicate the featherless lower legs. The species represented remains unidentified, but the short, curving beak and prominent round eye are more parrot-like than predatory. The surface of the bottom of the beaker is filled with a compass-drawn rosette, and is decorated with an overall pattern of circular punch marks.

These strutting birds find few parallels in Mesopotamian art of the later second millennium B.C., in which raptors generally are depicted in heraldically symmetrical compositions with domestic animals. Striding birds do occur, however, on a crushed-gold bowl excavated from Tomb 32 at Marlik in the southwestern region of the Caspian watershed.1 Our raptors share their stance and substantial proportions with the Marlik birds, which are more advanced technically, their heads worked in the round and turned outward toward the viewer. The Shumei beaker is rather simple and not so sophisticated and thus probably predates the Marlik bowl. Unfortunately, the fifty-three Marlik tombs, which have been dated from the fourteenth to the late eighth century B.C.,2 have as yet no secure sequence. Thus, the date of this beaker with birds is somewhat uncertain.
TSK


1. See Negahban 1983, pp. 26-27, 40-41; see Metropolitan Museum 1996, p. 31, fig. 1.
2. See Muscarella 1984, pp. 416-17.