牡牛装飾脚杯おうしそうしょくきゃくはい

  • イラン北西部
  • 紀元前12-紀元前11世紀
  • H-16.5 D-9

このゴブレットの卵形はメソポタミア由来であり、浅浮彫の体に頭が立体的に付けられた牛はイラン南西部エラムの影響が考えられ、象嵌あとや図像の特徴から、これは神聖な牛の表現であったと想像される。その頭部は高度な技術によって接合されており、その技法は未だに明確には解明されていない。古代イラン民族のすぐれた芸術と当時の文化的融合をよく物語っている器であると言える。

イラン民族の登場とその時代

紀元前二千年紀中頃より一千年紀初期にかけて、インド・イラン系民族の北からの移住がおこり、バクトリア地方、カスピ海東側を経由して、東イランやカスピ海の南側へと広がっていったものと考えられています。

この頃イランの西ないし北西で台頭してきたアッシリア帝国やウラルトゥ王国は北西イランへと侵攻し、この北西イランから北イランにかけては正に文化の坩堝となって行きました。 

嘴形注口容器 注口把手付容器 猛禽装飾杯 人物文様杯 猛禽文様杯 金帯 羚羊(ガゼル)文様皿 双獅子形容器 ペクトラル(胸飾) 施釉壺 精霊と従者浮彫

ライベイション

メソポタミアには潅奠(ライベイション)という液体を注ぐ宗教的儀礼が古くからありますが、井戸の冷水、聖水が神々に捧げられました。

南メソポタミアのバビロニアでは、死者に対する潅奠は水のみが使われたようです。更に、メソポタミアの神話には「生命の水」を捧げる話が見られます。

また神々には酒が捧げられる事も多く、ミルク、蜂蜜、油あるいはクリームが伴う事もありました。

灌奠にあたって、液体は祭主のまわりの地面に杯、椀、瓶などから注がれましたが、その器はしばしば金銀など高価な材質でつくられました。

あるいは犠牲の羊の頭、川、泉、または第二の器や門戸などにも注がれました。

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様式と技法について

この雄牛の頭が突出した意匠の金杯は、立体的に表わされた牛の頭部が器の穴に挿入され、リベットを使わずに、おそらくグラニュレーション法を使って接合してあると考えられていますが、その継ぎ目が殆ど分からない程洗練された技法です。小さな脚の底にはやはり幾何学的花文様が施されていますが、金属器としてはその器形は類例の少ないものです。

この接合技法については、金板どうしを手の込んだ打ち合わせをすることだけで接合してあるとする意見もあります。

これらのガラスや陶瓷の文様意匠は金属器、装飾品とも物質と地域を越えた共通点を持っています。これは紀元前三千年紀にすでに'国際的様式’がステアタイトの器とともに存在したように、広範な交易・文化的交流の産物と思われますが、なかでもギルロッシュ(縄文様)やロゼッタ(花文様)は正にその'国際的様式’以来おおよそ二千年以上その流行を保っていたと言えます。

器の起源について

この比較的小さな脚をもつ器の形態は、器壁から突出した牛頭の立体的装飾を除けば、その祖型を「乳頭杯」に求めることができます。

「乳頭杯」は紀元前二千年紀初頭から中期にかけての、マルリクに代表されるカスピ海南部地域、メソポタミアの中部から北部、そして地中海東岸地域などに広く見られる陶製やガラス製杯であり、これらを立てるために小さな円筒形の脚をつけました。

またこの先の丸い花弁文様を同様の形態の器の下部に巡らせた意匠は同じ頃のアッシリア中王朝アッシュール出土の練ガラス杯に酷似しており、やや時代の降った紀元前一千年紀初頭と思われるルリスタンのいわゆる「シトゥラ」(水取容器)にも見られます。これは乳頭杯の祖型を保っているものであると言えます。

類例について

祖型または類例と考えられる器は様々ですが、以下の若干例を挙げてみました。

1.陶瓷製単彩乳頭杯: 紀元前二千年紀初頭のメソポタミア・アッシュール出土

2.練ガラス及びガラス杯:アッシュール 二千年紀中頃

3.モザイクガラス杯: テル・エル・リマ出土及びマルリク出土 二千年紀中-後期

4.白色彩色陶瓷杯: ブラク、地中海東岸地域のアララクー出土

またこの容器のそもそもの原型を、紀元前三千年紀のメソポタミアのダチョウの卵殻に象嵌装飾を施した容器に求める見方もあります。

アッシュールの練ガラス杯とともに出土したガラス杯は一方で、その器の形状が、丸い帯の口縁、それに向かって幾分すぼまった器胎の線等秀明杯と酷似しています。

ルリスタンのシトゥラの形状はこれらの陶瓷器やガラス器の祖形を青銅に写したものであったと考えられます。

・Barthel Hrouda/ Vorlaeufiger Bericht ber die neuen Ausgrabungen in Assur Fryuhjahr 1990/ Mitteilungen Der Deutschen Orient-Gesellshaft Zu Berlin 123 1991;
・M.E.L.Mallowan/ Excavations at Brak and Chagar Bazar/ IRAQ IX 1947;
・Ezat O.Negahban/ Ibid. 1996;
・K.R.Maxwell-Hyslop/ Western Asiatic Jewellery c.3000 -612B.C./ London 1971;
・Joan Oates/ Babylon/ London 1979;
・The Metropolitan Museum of Art/ Discoveries at Ashur on the Tigris-Assyrian Origins- Antiquities in the Vorderasiatishes Museum, Berlin/ Exh.Cat.1995;
・Trudy S.Kawami/ Ancient Art from the Shumei Family Collection/ The Metropolitan Museum of Art1996

器と牛について

シトゥラ(水取容器)にはそれを立てるスタンドがついていた可能性もあり、比較的直径の小さい輪の付いた牛脚が見つかっています。

1.オックスフォード・アシュモレアン博物館
2.ベルリン古代史博物館:a)高9.5cm、 支持環径6.9cm b)高15.1cm、径7.8cm
3.ディビッドウェルコレクション:高8.5cm、径6.5cm

これらは径が6~8cmのシトゥラを支える可能性があったと思われますが、アシュモレアンとベルリンa)にはいわゆるBull-man(牛人)の姿が装飾されています。

このように器を支えるものとしての牛の要素には重要なものがあったことが想像されます。

天の雄牛

ハッサンルー出土の金杯には神話的場面が描かれていますが、その中のひとつに日月の二神を従えた天候の神が牡牛の牽く戦車に乗っている場面があります。

その牡牛の口からは水が流れ出し一つの流れを形成しているかのようです。その牛に向かい、ひとりの神官と思われる人物が底の平らなマルリク型らしき杯を両手に捧げ持っています。彼の後には供物としての羊を一頭ずつ連れた二人の人物が控えています。ここには牡牛は天候の神の使いで、水を供給するものとして考えられていたことが示されているのではないかと思われます。

カスピ海地方、マルリク周辺の遺跡からは多くの牡牛を象った注口付土器が発掘されていますが、あるいはこれも水を供給する者としての牛をあらわしているものかも知れません。これらはおそらく何等かの生命を与える水を入れる器を意味したのではないかと思われます。

マルリクから出土した、やはり立体に作られた頭部を持つ牡牛の意匠の金杯では、翼がその上半身に生え、生命の木に両脇からよりかかるように前脚をあげ後脚で立ち上がった牡牛が四頭あらわされていますが、丸彫りで表現された頭部を見ると、秀明杯は意匠化の傾向が強く一種の面取り表現に近いものがあるのに対して、より写実的な表現がなされています。

その毛並みの表現を見ても秀明の金杯とかなりの相異があります。むしろそのより意匠化された体躯の表現と、( 型の刻印 の連続で現された毛並みの表現はハ杯に大変近いものがあります。

牛の背中や四肢に彫られた太いJ型の装飾と、たてがみ(?)後端の巻毛の表現は、マルリク出土の金杯のユニコーン意匠と大変近似しています。

更に四肢につけられたJ型の房のような表現は、古くはメソポタミア紀元前三千年紀の円筒印章の人面牛などの後足及び、紀元前10~9世紀とされる北西イラン由来の青銅製の壺の有角獣にも見られ、この一連の動物が超自然的、神話的な存在である事を示していると思われます。

牛の体にはこのJ型の窪みも含めて、角、目、耳、耳下の'もみあげ'、口の両端、蹄、尾の部分に窪みがありますが、貴石などなんらかの象嵌が施されていたのではないかと想像されます。当時の西アジアでは有色の貴石自体その色によって各々の意味を持たされていました。その貴石が多数象嵌されたと考えられるこの杯は正に呪術的に重要な役割を持っていた可能性が考えられます。


・Ezat O. Nagahban/ Metal Vessels from Marlik/ Myunchen 1983
・Erica Reiner/ Astral Magic in Babylonia/ 1995 Philadelphia

グラニュレーション

粒金と金線の細工は古くは紀元前三千年紀メソポタミア・ウルの王墓にみられますが、とりわけエジプト第18王朝トゥトアンクアメン、第19王朝ラムセス二世の王墓からは類似の金線と粒金細工を組み合わせた宝飾品がみつかっています。

またこの帯と同時代のメディアのものとされる金のメダイオン及び犠首にも同様の技法が見られます。

この粒金法(グラニュレーションgranulation)と呼ばれる古代技法は

1.あらかじめ等しい大きさに刻んだ金板の小片を融解点まで熱し、金の小粒を作る。

2.水酸化銅と有機物の混合した糊を使い、1.の小粒を装飾すべき金の表面に接着し、文様を作る。

3.これを金の融解点以下に熱すると有機物は酸化し炭化され、水酸化銅を還元して金板の表面と粒金の表面を銅の点状のはんだで接合することとなる。

この技法は紀元数世紀のうちに消滅し、今世紀後半になって「発見」され復元されました。

・Christiane Desroches Noblecourt/ Tutankhamen/ 1963 New York Pl. XXIa;
・ William Culican / The Medes and Persians / 1965 New York; ・K.R.Maxwell-Hyslop/ Western Asiatic Jewellery c.3000 -612B.C./ London 1971;
・7000 Jahrre Kunst in Iran / 1962 Essen ;
・Carol Andrews / Ancient Egyptian Jewelry / 1990 London

人物文様杯 猛禽文様杯 金帯

Catalogue Entry

This stunning goblet, notable for the high quality of its craftsmanship, presents an outstanding synthesis of Iranian and Mesopotamian elements. Supported by a small flaring foot and a rosette-covered base, and bordered at top and bottom by carefully executed guilloches, the main surface of the cup contains a row of three imposing bulls. In contrast to the animals' subtly modeled bodies, worked in low relief and covered with rows of fine decorative linear patterns, their naturalistic heads with curving horns are fully in the round, protruding from the surface of the vessel at right angles. Unlike the vulture heads on the cup in catalogue number 23, these heads are not secured by rivets, but are skillfully cold joined: that is, the metal of the head is worked into the vessel wall on the inside, while the metal of the wall is worked over the necks on the exterior. Both the heads and the bodies have precisely defined cells for inlays in the horns, eyes, ears, and hooves as well as in the curls on the shoulders, legs, and haunches. The roughened surface prepared to receive the adhesive within each cell is clearly visible under magnification.

The goblet finds its place among the many gold and silver vessels unearthed at sites in northern and northwestern Iran, dating to the second through the early first millennium B.C. The closest stylistic counterparts to the stately bulls are seen on a large, gold bowl excavated from Tomb 26 at Marlik in northwestern Iran (fig. 1).1 The Marlik bulls, whose heads are worked in high relief, combine naturalistic representation and decorative surface patterning. These bulls are active, rearing on their hind legs and spreading their wings, in contrast to the placid poses of the bulls on the Shumei goblet, whose measured motion may indicate the artistic influence of objects from Susa in southwestern Iran, such as a bronze beaker with naturalistic bovines and equids calmly pacing along its sides.2 In contrast to vessels recovered from Marlik, an early Iron Age cemetery whose exact dating sequence is still unsettled, the Susa beaker can be dated fairly securely between the twelfth and the tenth century B.C.

The egg-shaped goblet as a form is not Iranian in origin but has a long history in Mesopotamia, where inlaid ostrich-egg containers have come to light from tombs dating to the third millennium B.C. The shape is well documented by glass vessels produced in northern Mesopotamia in the second half of the second millennium B.C., some of which also have the petaled base and small flaring foot of the gold goblet.3 Oval Mesopotamian vessels, made of glass and stone, come from excavations in northwestern Iran at Marlik4 and at Hasanlu.5 These luxurious imports demonstrate the appeal of this shape in Iran and the achievements of the ancient artisans who were inspired by it.
TSK


1. See Negahban 1983, no. G-8, pp. 12-15, 34-36.
2. See Amiet 1966, pp. 472-73; Winter 1980, p. 88, fig. 55.
3. See Harper et al. 1995, pp. 106-8, nos. 69-71, pl. 12.
4. See Negahban 1964, Tomb 45, p. 106.
5. See Pigott 1989, p. 77, fig. 16.