文保百首断簡(伝亀山天皇筆)ぶんぽひゃくしゅだんかん かめやまてんのう

  • 鎌倉時代
  • 13-14c
  • 彩箋墨書
  • H-25.7 W-37.5
  • 所蔵
    紀州徳川家伝来

 亀山天皇は第九十代天皇、四十二歳の時に出家して金剛源と称した。禅宗に帰依し離宮を喜捨して禅寺となし、東福寺三世・無関普門を請じて開山とした。これが後の南禅寺である。金剛院切はもとは巻子本であった御詠集である。斐紙の料紙に金銀泥で雲・霞・草などの下絵を描き、歌一首三行書きとなっている。大きく太く書き始められて次第に細く小さくなっていく筆跡は、草混じりの女手を主とした穏やかなものとなっている。上下にもうけられた余白は料紙の美しさと詩の余韻を盛り立てる効果を出している。紀州徳川家伝来。

和歌

平安時代から鎌倉時代初期にかけての和歌などのかなの書は古筆(こひつ)と呼ばれます。本来は古人の筆跡を意味する言葉でしたが、いつの頃からかそう呼ばれるようになりました。王朝文化の精華ともいうべき古筆は、茶席の一幅として、国文学の文献として、そして学書の規範として、非常に価値の高いものといえます。

元暦校本万葉集 天治本万葉集巻第十断簡(仁和寺切) 続古今和歌集断簡(六帖切)(伝藤原行成筆) 麗花集断簡(香紙切)(藤原公任筆) 詠草(藤原定家筆) 五月雨 春日懐紙(中臣祐方筆) 桂本万葉集巻第四断簡(栂尾切) 新古今和歌集断簡(伏見天皇筆)

宸翰とは

 天皇の筆跡のことで、宸筆ともいう。古代の宸翰は数少ないが、中世、近世のものは多く残っている。鎌倉時代の天皇は学問、詩文・和歌・書に精励したため能書家が多く輩出した。その筆跡は巧妙で力強く、すぐれたものが多いことから特に宸翰様と呼ばれている。

新古今和歌集断簡(伏見天皇筆)

読み下し

うつりゆく かけにはもえて
 きふねかは なみにもきえす
        とふほたるかな

わきてまた すゝしかりけり
 みたらしや みそきにふくる
        かものかはかせ

かせのをとに 秋はきにけり
 たつたやま こすゑにかはる
        色はみえねと

せめてけに いま一よをも
 たなはたに 契をそへて
       かす人もかな

をとつるゝ をとさへかなし
 ものおもふ あきのゆふへの
        おきのかはかせ

解説(春の玉手箱)

 金銀泥で雲を描き、砂子、箔、野毛を霞引きにした豪華な料紙に、歌五首を一首三行にして書き連ねている。形状から、もとは巻子本であったと思われる。伝来では金剛院切と呼ばれ、亀山天皇の筆とされてきたが、藻塩草所載等の金剛院切とは紙幅も違い、手も少々違うようである。むしろ、金銀散らしの料紙はより重厚で、筆勢もゆったりしている。
 文保百首は、後宇多院によって、続千載和歌集の編纂が文保二年(一三一八)に決められた際に、当代の歌人達から百首を召して、その資料としたものである。この五首は第六冊の昭訓門院春日(公宗母)のもので、第二首の「わきてまた…」の歌が続千載和歌集の所収となっている。金銀の霞に浮かぶ歌の連なりは、温雅な書風と相俟って、たおやかな雰囲気を醸し出している。

読み下し

うつりゆく かけにはもえて
 きふねかは なみにもきえす
        とふほたるかな
わきてまた すゝしかりけり
 みたらしや みそきにふくる
        かものかはかせ
かせのをとに 秋はきにけり
 たつたやま こすゑにかはる
        色はみえねと
せめてけに いま一よをも
 たなはたに 契をそへて
        かす人もかな
をとつるゝ をとさへかなし
 ものおもふ あきのゆふへの
        おきのかはかせ

Catalogue Entry

This elegant decorated paper has been painted with gold and silver paint, and then scattered with metallic dust, small squares and cut pieces of foil. Five waka poems are written on the sheet, each brushed in three lines. The format of the paper suggests that it was originally bound as a kansubon scroll.

Traditionally this fragment was thought to be a Kongo'in gire fragment and was said to have been brushed by Emperor Kameyama, but the other fragment from the Kongo'in scroll consists of a wider piece of paper and the calligraphic hand is somewhat different. Further, the gold and silver decorated paper is a bit thicker and the brushwork looser.

The Bumpo Hyakushu was careaded as a reference source when Emperor Go-Udain was compiling his imperial poetry anthologies. Created in Bumpo 2 (1318), this reign date gave its name to the collection. The emperor asked the poets of the day to each submit 100 verses and the collection was created from that group. These five verses are from the 6th volume of the anthology and were written by Shokunmonin Haruhi (mother of Kimimune). The second verse, beginning with the phrase "wakite mata," was included in the multi‐thousand verse anthology.

The lines of poetry floating against their gold and silver clouds, combined with the elegant writing exude an elegantly graceful mood.