阿弥陀如来坐像あみだにょらいざぞう

  • 平安時代後期
  • 12c
  • 寄木造(桧)漆箔
  • H-112.3
  • 所蔵
    重要美術品

平安時代後期 12世紀
木造漆箔
像高:112.3cm

両手で定印を結ぶ阿弥陀如来像である。定印とは,心静かに精神を集中していることを象徴する印契で,阿弥陀の定印は,両手掌を仰いで右手を上に重ね,両人差し指を立てて相背け,両親指をその端に横たえる。両界曼荼羅のなかにこの姿の阿弥陀像がすでに現れているが,むしろわが国では,浄土教を密教的に解釈する思潮にのっとって,平安時代後期以降,この像に対して極楽往生を願う風が起こり,この印を結ぶ阿弥陀像は広く普及した。

頭頂に盛り上がる肉髻をもち,螺髪(巻き毛)と白毫(眉間の珠)を表し,衣を偏袒右肩(右肩を出す着方)にまとうなどの特徴は,ほかの如来像と共通しており,ヒノキを用材とした寄木造からなる。頭・体の根幹となる部分が,同等の複数の材を寄せて作っているのを寄木造というが,この像の場合,ちょうど真ん中の位置で左右に二材を寄せている。さらに,頚部の下で割り放って内刳りを入れたあとで,矧ぎ合わせているのである。そのほかに,左体側部と右手で矧ぐが,この右手はさらに肘と手首でも矧がれる(定印の両手首先は共木)。両足部は一材を矧いでいる。表面はほとんど剥落して素地を見せ,所々に黒漆が残っているが,この漆は後補で,本来は漆箔(漆の上に金箔を押す)の仕上げだった。

満月のように丸い面相部にやさしい面相が配されるのは平安時代後期の一般的な作風だが,衣のひだ(衣文)がやや硬く,一部に角の立った線が入るのは古様の残存といえようか。

台座は上から,蓮華(蓮弁はすべて欠失している),束,華盤(しべつき),下敷茄子,受座,反花,上框,下框(二段)からなる八重の蓮華座。下敷茄子,反花,上框の一部は後世の補作(後補)だが,それ以外は像本体と同じときのもので,華盤に浅く彫られた文様も,平安時代後期の一般的な作風である。光背は欠失している。(伊東)

阿弥陀如来

阿弥陀如来

 仏教。西方極楽浄土の教主。梵語  の音訳で、意味合いをとって無量寿、無量光とも漢訳されている。死後衆生を極楽浄土の往生させる願いを立て、それを実現しているとされる。
 日本へは奈良時代に伝えられており、平安時代に貴族を中心とする浄土願望の信仰を受けて、数多くの造像がなされた。鎌倉時代になると法然、親鸞、一遍らによって、阿弥陀に対する信仰が民衆にひろめられ、それぞれ浄土宗、浄土真宗、時宗の本尊となった。

定朝

定朝(?ー1057)

 平安時代を代表する仏師。生年は不明。康尚の子。仏像の躯幹部を複数の材で構成する寄木造(よせぎづくり)の完成者ともいわれ、その円満優雅な作風は宮廷や藤原氏の人々の賞賛するところとなり、特に彼が造った阿弥陀如来像は「弥陀の本様」として、後世の造仏の規範となった。天喜5年(1057)没。
 代表作は宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像。

主な業績

1020年(寛仁4)康尚とともに藤原道長発願の無量寿院(=後の法成寺阿弥陀堂)の九体阿弥陀像を造る。
1022年(治安2)法定寺造仏の功によって、仏師としては初めて法橋の位につく。
1026年(万寿3)後一条天皇の中宮威子のお産祈祷のための等身大の仏像(27体)を造る。
1036年(長元9)後一条天皇の仏事のための仏像3体を造る。
1040年(長久1)後朱雀天皇の念持仏として、一尺の銀製薬師像(木製の原型か)を造る。
1048年(永承3)興福寺の造仏の賞により、法眼にすすむ。
1053年(天喜1)京都宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像を造る。
1054年頃(天喜2)京都西院邦恒堂の阿弥陀如来像を造る。

飛天

阿弥陀如来とは

阿弥陀如来とは

 サンスクリット語のアミターバ(Amitabha)、またはアミターユス(Amitayus)の訳で、無量光または無量寿と翻訳される。阿弥陀はアミタの音訳。西方・極楽浄土にあって法を説く。
 久遠の昔、世自在王という仏がおられた時、ある国王が王位を捨て、出家し、法蔵比丘となって世自在王仏のもとで修行し、諸仏の浄土を見学し、五劫という長い間考えて特別に勝れた願い(48願)を起こした。以来徳を積み、今から十劫以前に願行が成就。阿弥陀仏となり、西方十万億土の彼方に極楽を建立し、今も説法しているという。
 浄土門の教主。脇侍は観音、勢至両菩薩。多くの尊像が造られたほか、極楽浄土を描いた浄土図や観音・勢至両菩薩や二十五菩薩を引き連れ、臨終の阿弥陀信仰者を迎えにくる姿が来迎図として描かれた。

阿弥陀三尊来迎図 阿弥陀来迎図 阿弥陀仏図 阿弥陀如来懸仏

初期大乗仏教における仏教の世界観の発展

初期大乗仏教における仏教の世界観の発展

 インドの大乗仏教はおおまかに初期、中期、後期に大別できますが、紀元前後から300年頃までの初期大乗仏教は仏教の信仰実践を中心として、釈迦の精神をもっとも良く発揮しているといわれており、「般若心経」などの般若系教典、「法華経」「維摩経」「無量壽経」「華厳経」などがこの期に属する教典として知られています。これらの教典に見られる仏教世界観の発展の様を通観してみましょう。

 がんらい仏教では一世界には仏陀は一時に一人しか現われないとされていました。しかし、原始仏教の時代にも釈迦が悟りを開く以前、過去に六人の仏陀が現われ、人々を教化救済したとする考えがありました。また釈迦入滅後にも、未来の仏として弥勒仏が出現するとも考えられていました。部派仏教の時代になると、これが発展し過去・現在・未来の三世にわたって多くの仏陀が出現して法を説いているとする考えが生まれ、部派のひとつの大衆部の一派では、釈迦仏が法を説いたこの世界(娑婆世界)のほかに十方に種々の世界があって、それぞれの世界に同時に仏陀が現れて法を説くと考えるようになりました。
 大乗仏教ではこの考えをさらに発展させ、三世十方の世界には無数の仏陀が出現すると説くようになりました。釈迦が法を説くこの世界は一仏世界であり、須弥山(しゅみせん)を中心として、この頂に三十三天、四周の麓に四天王のいる四王天がある。その東に勝身州(弗婆堤)、南に 部州(閻浮堤)、西に牛貨州(倶耶尼)、北に倶 州(くるしゅう)という人の住む大陸があり、周辺を鉄囲山(てっちせん)が囲んでいる。四州の地下には地獄があると考えられています。このような世界観は次第に拡大し、このような世界を小千世界として、これを千あわせたものを中千世界、そしてこの中千世界を千あわせた世界を三千大千世界と言うようになりました。
 「梵網経」で説かれる蓮華胎蔵世界は、このような世界観を現わしたもので、三千大千世界の教主であるル舎那仏が坐る千葉の蓮華の一枚一枚に、さらに釈迦仏が坐る千葉の蓮華があり、この葉のそれぞれに一人一人の小釈迦が主宰する小千世界が存在すると考えられています。このような世界観は我が国にも伝えられ、奈良東大寺の大仏はこのような世界を現わしています

阿弥陀三尊来迎図 阿弥陀来迎図 阿弥陀仏図 浄土曼荼羅図 阿弥陀如来懸仏

Catalogue Entry

Late Heian period, 12th century
Assembled wood with lacquer-applied gilding
Figure height, 112.3cm

This is a seated image of Amida Nyorai with both hands clasped in the jo'in mudra (Dhyana-mudra). The jo'in mudra is the mudra which symbolizes a quiet heart and concentration, and the jo'in of Amida shows both hands placed with palms up with the right hand layered over the left, both index fingers bent up at the joint with the backs of the two fingers touching, and both thumbs resting on the tips of these vertical index fingers. This form of Amida image appears in both mandalas of the Ryokai mandala pair, and in Japan, in accordance with the Esoteric teachings of the Jodo sect, the fashion for calling on this Buddha for rebirth in Paradise meant the wide-spread dissemination of Amida images with this mudra during and after the late Heian period.

This figure, like other Nyorai (Tathagata) images, has a fleshy protuberance on his head known as a "nikkei" (Usnisa), snail shell-shaped curls, a "white curl" mark between his eyebrows, and robes draped in the style in which the figure's right shoulder is left exposed. Made of hinoki (Japanese cypress), this sculpture has been formed using the yosegi zukuri sculptural method. This means that the section which forms the central core of the head and body has been constructed from a number of equal-sized blocks of wood, and in the instance of this image, the central core is formed by two pieces of wood joined right and left around the exact middle of the image. The area beneath the neck has been split, and after the two core pieces of wood were hollowed out, the neck was dovetailed to the body section. In addition, the flank of the left side and the right hand were dovetailed, and the elbow and wrist of the right arm were also dovetailed (the hands joined in the jo'in mudra are carved from a single block of wood). Both legs are a dovetailed, single piece of wood. The majority of the surface has fallen away and the plain wood surface left exposed, while the traces of black lacquer that remain here and there are later additions. Originally, the surface would have been finished in lacquer-applied gilding (in which gold leaf is pressed into lacquer).

The round, moon-like face has a gentle expression that is the characteristic style of the late Heian period, while the drapery pleats are somewhat sharp with the occasional appearance of bent corners, an indication of the remains of an older style.

Working from the top, the pedestal is made up of a lotus flower seat (all of the petals have been lost), the tsuka post, keban (with stamens and pistils), shita shikinasu, ukeza, kaeribana, ue kamachi, and shita kamachi (double layered), and is thus an eight-layer lotus pedestal. The shita shikinasu, kaeribana, and a section of the ue kamachi are later additions, but the remaining sections of the pedestal date from the same period as the sculpture, and with the exception of the keban, their carved patterns are also in the standard style for the late Heian period. The nimbus for this image is now lost. SI