人物文様杯じんぶつもんようはい

  • イラン西部
  • 紀元前14-紀元前13世紀
  • エレクトラム
  • H-13.3 D-6

この杯の全体の形状は北イランに特有のマルリク型であるが、その器壁に表現された三人の人物はほとんど同じ容貌と形姿をし、当時のバビロニアの円筒印章の意匠にきわめて類似している。当時のバビロニアのガラス器にも同様の人物の連続意匠が見られ、当時の交易に盛んに使われた印章の印刻像や器がバビロンからイラン高原に伝わり、その影響がこうした金属杯の意匠にもあらわれたものではないかと思われる。

イラン民族の登場とその時代

紀元前二千年紀中頃より一千年紀初期にかけて、インド・イラン系民族の北からの移住がおこり、バクトリア地方、カスピ海東側を経由して、東イランやカスピ海の南側へと広がっていったものと考えられています。

この頃イランの西ないし北西で台頭してきたアッシリア帝国やウラルトゥ王国は北西イランへと侵攻し、この北西イランから北イランにかけては正に文化の坩堝となって行きました。 

嘴形注口容器 注口把手付容器 猛禽装飾杯 猛禽文様杯 金帯 牡牛装飾脚杯 羚羊(ガゼル)文様皿 双獅子形容器 ペクトラル(胸飾) 施釉壺 精霊と従者浮彫

技法と形態

このエレクトラムの杯は、主に底の部分と胴の部分の二つの大変薄い延べ板によって作られています。

胴の部分は円筒型に丸められ、底の部分は浅い杯型に打ち出し、その接合部分はグラニュレーションという古代技法で接合されていると考えられています。

内側に折り返された口縁は厚めのリボン状の断片を巻き込み補強してあります。

これらはその器底部を丸く帯状に突き出した安定感のある器の形から、カスピ海の南側、北イランのマルリクから出土した器物に近いいわゆる’マルリク型’杯に分類されます。

・Zvigoffer/ Archaeological Chemistory/ A Wiley-Inter Science Publication New York ;
・R.J.Forbes/ Studies in Ancient Technology Vol.VIII/ E.J.Brill 1971;
・P.Meyers/ Ancient Art from the Shumei Family Collection / The Metropolitan Museum of Art 1996

猛禽文様杯

髭と髪について

横縦に流れる顎髭の独特な表現は紀元前二千年紀初期からメソポタミアに見られる伝統的表現を簡略化したものと考えられます。

ほぼ顎の線にそった平行線が同様に見られます。髭末端の’括り’は独特であるが、カールした髭を様式的簡略にあらわしたものに見られる横縞(Collon139)に、あるいはならったものと想像されます。

細い鉢巻きをした髪形はハッサンルーから出土した金銀杯や象牙細工に大変近似したものが見られます。

・D.Collon/ First Impressions1987,139,156,157,219,646;
・Pierre Amiet/ Art of the Ancient Neareast/ New York 1977

近似例について

 その全体の刻線の筆致は正にマルリクから出土した薄い金で作られた器に表わされた文様に酷似していると言えますが、彼等は多くの対外的交流を通じて当時の中近東のスタイルを吸収し、独特の形式を作りあげたものであると言えます。

Ezat O. Nagahban/ Praehistorische Bronzefunde-Metal Vessels from Marlik/ Myunchen 1983,5

人物像について

この左足を踏み出した人物とロゼッタ文が連続した意匠は、北西イラン・ハッサンルーから出土した南メソポタミア・バビロニア由来と考えられるモザイクガラス器に、近似した構成を見出す事ができます。

この高度な技術を駆使したガラス器に匹敵するものは北アッシリアとマルリクに見られますが、このバビロニアからアッシリア、ハッサンルーそしてマルリクをつなぐ交易路は古くから存在し、後にはシルクロードの一支脈である「コラサンロード」と呼ばれました。

・Trudy S.Kawami/ Ancient Art from Shumei Collection Catalogue/ The Metropolitan
 Museum of Art 1996;
・Peter Calmeyer/ Later Mesopotamia and Iran/ London 1995

人物意匠の類例

この同じ人物や文様を繰り返し刻んだ構成は、オリエント世界に交易を通じて広く使われた円筒印章の展開刻印像からの発想をも思わせますが、実際に紀元前二千年紀中頃のバビロニア由来の印章には同様の人物の体勢と衣装の様子が表現されています。

足首まで垂れた縁飾りのある衣装の右肩をむきだしにし、後に右腕を垂らし、左腕はほぼ垂直に曲げ掌を腹部にあて、右腕にはしばしば刀あるいは杖を持つ―― この体勢と衣装は当時のバビロニアを支配していたインド・ヨーロッパ系民族カッシートのスタイルから取材したものと思われます。

B.C.19世紀の北メソポタミアの印章にカッシート型の元になったものの一つと思われ祖型を見ることができます。

更にバビロニア・カッシート印章は、刀のようなものを左手に持った人物が右肩脱の足首まで垂れた衣装をつけ、開いた両足の間には帯と思われるリボン状の垂れが見え左、腕手首のあたりからは三角形の袖を思わせるものが垂れています。

紀元前二千年紀前半の北メソポタミアの印章には、衣の折り返しが何物か長い棒状のものをこの人物が左腕に抱えているようにも見られかねないものがあります。

更にこの人物の前には日月をかたどった天体の意匠が表わされ、このエレクトラムのカップのロゼット文に通うものがあります。

このシミタール刀のような逆S字型をした杖及び衣の折り返しが、交易に使われた封泥の刻印像として伝わった場合、このエレクトラム杯に見られるような衣の折り返しとも逆S字型の板ともつかない表現に変容していった可能性も考えられます。

Dominique Collon/ First Impressions-Cylinder Seals in the Ancient Near East/1987 Chicago 181,199,235,236,652

エレクトラムについて

エレクトラム'electrum'は金と銀の自然の合金のことを指します。金は本来ある程度の割合で銀を含んで産出されるますが、ローマ時代のプリニウス以来その銀の割合が1/5以上である場合エレクトラムと呼ばれるようになりました。

一般的にはエレクトラムが金と銀の合金であるという認識及びその分離技術が発達したのは紀元前6世紀の中頃であると言われています。

またローマ時代のプリニウスによれば、天然のエレクトラムの器は毒味の働きがあり、毒が注がれると虹のような半円形がその表面に走り、ぱちぱちと言う火の燃えるような音をたてるとされています。

あるいはエレクトラムの杯にはこの紀元前二千年紀後半頃の西アジアにおいてもそのような一種の魔除の機能が考えられていたのかもしれません。

古代メソポタミアの疾病に対する魔除けと癒しの儀礼には、しばしば魚の衣とライオンの頭部をつけた人物が登場します。

マルリク出土の薄い金板による器には(Negahban 1983, 5)魚の文様が刻まれ、北西イラン由来と言われるエレクトラムの器(Culican 1965,pl.7)にはライオンの頭部を持った魔物と魚が刻まれています。

このような薄い金あるいはエレクトラムで作られた器には古代の呪術的な癒しあるいは魔除けのならわしにつながる何等かの意味合いが込められていたのではないかと考えられます。

・William Culican/ The Medes and Persians/ New York 1965 , pl. 7 ;
・Horst Klengel/ Handel und Haendler im alten Orient/ 1983 Leipzig;
・Pliny/ Natural History/ XXXIII 81;
・Eric M. Meyers / The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East/ London 1997;
・Erica Reiner/ Astral Magic in Babylonia/ Philadelphia 1995

猛禽文様杯

エレクトラムの器について

薄いエレクトラム板を使った器は単に打ち出し成型では割れやすいことが予想され、数枚の板で構成されなければならなかったと思われますが、それ以上にこの場合はそれがおそらく埋葬用の儀式用の器であったという関連で容易にこのような技法と結び付いたのではなかったでしょうか。

口縁の仕上げは補強してあるとは言え危ういものがあり、日常の用を目的としていなかったと思われます。更にマルリクや黒海東岸インド・ヨーロッパ系スキタイの遺跡等からも薄い金板やエレクトラムで作られた埋葬儀器が見つかっています。

このことはエレクトラムや薄い金板を儀器製作のために使う何等かの必然性と経済的必要性のあった事が予想される時代の産物としてこのエレクトラムの器を考えさせるものがあります。

この杯が作られた紀元前二千年紀初期頃より南イランのエラムが勢力を増し、東イランを中心とした金資源が西アジアでは入手できなくなり、はるばるエジプトに求めるようになりました。

二千年紀中頃のバビロニア・カッシート期になると、金が交易の支払手段として使われましたが、当時の金と銀の比率は1:9でした。

この情況の中で金に似たエレクトラムの使用が余儀なくされた事も想像されます。

一般的にはエレクトラムが金と銀の合金であるという認識及びその分離技術が発達したのは紀元前6世紀の中頃であると言われていますが、金とは違った何らか特殊な徳を備えた金属として認識されていた可能性もあります。

ローマ時代のプリニウスによれば、天然のエレクトラムの器は毒味の働きがあり、毒が注がれると虹のような半円形がその表面に走り、ぱちぱちと言う火の燃えるような音をたてるとされています。

あるいはエレクトラムの杯にはこの紀元前二千年紀後半頃の西アジアにおいてもそのような一種の魔除(まよけ)のはたらきが考えられていたのかもしれません。

古代メソポタミアの疾病に対する魔除けと癒しの儀礼には、しばしば魚の衣とライオンの頭部をつけた人物が登場します。

マルリク出土の薄い金板による器には、魚の文様が刻まれ、北西イラン由来と言われるエレクトラムの器(Culican 1965, pl.7)にはライオンの頭部を持った魔物と魚が刻まれています。

このような薄い金あるいはエレクトラムで作られた器には、古代の呪術的な癒しあるいは魔除けのならわしにつながる何等かの意味合いが込められていた可能性が考えられます。

・William Culican/ The Medes and Persians/ New York 1965 , pl. 7 ;
・Horst Klengel/ Handel und Haendler im alten Orient/ 1983 Leipzig;
・Pliny/ Natural History/ XXXIII 81;
・Eric M. Meyers / The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East/ London 1997;
・Erica Reiner/ Astral Magic in Babylonia/ Philadelphia 1995

猛禽文様杯

ライベイション

メソポタミアには潅奠(ライベイション)という液体を注ぐ宗教的儀礼が古くからありますが、井戸の冷水、聖水が神々に捧げられました。

南メソポタミアのバビロニアでは、死者に対する潅奠は水のみが使われたようです。更に、メソポタミアの神話には「生命の水」を捧げる話が見られます。

また神々には酒が捧げられる事も多く、ミルク、蜂蜜、油あるいはクリームが伴う事もありました。

灌奠にあたって、液体は祭主のまわりの地面に杯、椀、瓶などから注がれましたが、その器はしばしば金銀など高価な材質でつくられました。

あるいは犠牲の羊の頭、川、泉、または第二の器や門戸などにも注がれました。

嘴形注口容器 猛禽装飾杯 猛禽文様杯 牡牛装飾脚杯

グラニュレーション

粒金と金線の細工は古くは紀元前三千年紀メソポタミア・ウルの王墓にみられますが、とりわけエジプト第18王朝トゥトアンクアメン、第19王朝ラムセス二世の王墓からは類似の金線と粒金細工を組み合わせた宝飾品がみつかっています。

またこの帯と同時代のメディアのものとされる金のメダイオン及び犠首にも同様の技法が見られます。

この粒金法(グラニュレーションgranulation)と呼ばれる古代技法は

1.あらかじめ等しい大きさに刻んだ金板の小片を融解点まで熱し、金の小粒を作る。

2.水酸化銅と有機物の混合した糊を使い、1.の小粒を装飾すべき金の表面に接着し、文様を作る。

3.これを金の融解点以下に熱すると有機物は酸化し炭化され、水酸化銅を還元して金板の表面と粒金の表面を銅の点状のはんだで接合することとなる。

この技法は紀元数世紀のうちに消滅し、今世紀後半になって「発見」され復元されました。

・Christiane Desroches Noblecourt/ Tutankhamen/ 1963 New York Pl. XXIa;
・ William Culican / The Medes and Persians / 1965 New York; ・K.R.Maxwell-Hyslop/ Western Asiatic Jewellery c.3000 -612B.C./ London 1971;
・7000 Jahrre Kunst in Iran / 1962 Essen ;
・Carol Andrews / Ancient Egyptian Jewelry / 1990 London

猛禽文様杯 金帯 牡牛装飾脚杯

Catalogue Entry

This slender-and now-fragmentary-beaker made of electrum (a naturally occurring alloy of gold and silver) consists of two separate pieces: the flat base, with its thick ridge and band of elongated tongues or petals, is fitted inside a cylinder that forms the body of the vessel. The patterned band not only strengthens the cold joining of the two parts but also obscures the seam. The rim of the beaker was reinforced in antiquity by crimping the edge inward over a narrow gold strip to which an abbreviated petal pattern was added. On the sides of the vessel are three striding men separated from each other by sets of three rosettes arranged vertically. The bearded men have long wavy hair held together by a band or fillet and are wrapped in fringed and patterned mantles that cover their left shoulders and arms. Their full beards, rendered by oblique lines around the face, are tied with a small band at the tip. A knee-length kilt, a patterned sash whose end falls between the legs, and shoes or sandals with turned-up toes complete the garb. On the flat base of the beaker is a compass-drawn six-petaled rosette, its centering point still visible. Both the petals and the ground are decorated with punched circles similar to those on the mantles.

Flat-bottomed vessels with straight sides are known from northern and western Iran, and date to the second millennium B.C., although no excavated examples are as small and slender, nor made in the same fashion, as the present example. An elegant glass beaker-a Mesopotamian import at least three hundred years old when it was buried about 800 B.C. at the sack of Hasanlu in northwestern Iran-bears a similar composition.1 On the glass beaker four bearded men wrapped in patterned mantles and separated from each other by sets of three small crosses arranged vertically move in a static row to the viewer's right.2 Details of faces, hair, beards, and dress point up the Iranian origin of the Shumei electrum beaker and suggest its date. The large size of the heads and the crisp delineation of eyes, noses, and mouths, as well as the flowing lines of the beards, evoke the sober style of a pair of Elamite statuettes excavated from Susa and dated to the twelfth century B.C.3 However, on figural representations from southwestern Iran hair is carefully bound and arranged, as was the fashion in Mesopotamia. Long, free-flowing locks appear primarily on images from northwestern Iran dating from the late second into the early first millennium B.C., with the sites of Marlik and Hasanlu supplying numerous examples.4 Here, the small portion of hair combed forward and curling to touch the forehead is difficult to parallel; only the upswept forelock of a male figure on the Hasanlu gold bowl presents any similarities. Form-fitting mantles worn leaving one shoulder and arm bare are depicted primarily on objects made during the first half of the second millennium B.C. in southwestern Iran, but patterned circles and luxurious fringe appear more frequently as decoration toward the end of the millennium; the sumptuous garments shown on the bronze statue of the Elamite Queen Napirasu are the most monumental example.5
TSK


1. See Metropolitan Museum 1996, p. 29, fig. 1.
2. See Porada 1972, p. 172, fig. 8.
3. See Harper et al. 1992, pp. 146-48.
4. See Muscarella 1980, pp. 40-43, nos. 75, 79, 83-88; Negahban 1983, p. 82, no. 56; Winter 1989, p. 90, fig. 6, p. 93, fig. 13, p. 98, fig. 19.
5. See Amiet 1966; Harper et al. 1992, pp. 132-35; Kawami 1992, p. 10.