乾山色絵寿字輪花向付けんざんいろえことぶきじりんかむこうづけ

  • 京都
  • 江戸時代
  • 18世紀
  • 乾山陶
  • H-5.4 D-14

鳴滝時代は、自らの芸術性が遺憾なく発揮され、多くの名品を送りだした時期といえようが、乾山は正徳二年(1712)、開窯13年目にして京都の町中である二条丁子屋町に移っている。種々の理由が挙げられようが、経済的な面とともに当時すでに人気が高まりその需要に対応するためであったこともそのひとつに考えられよう。この時期は五条坂などの共同窯を使った借窯での生産であり、向付などの数物食器が多く焼かれた。乾山は基本的に工房生産という態勢をとっていた。成形、絵付、施釉、焼成など何人かの専門職人の手を経て出来上がるため、同組の作品であっても微妙に作行きが異なる。

この向付は輪花を象ったもので、素地に白化粧を施し、黄色で一条の輪を、その下に緑の帯を内面と外面にそれぞれ巡らし、見込み中央には「壽」の文字を銹絵で記している。削り込んだ高台内には銹絵で円形に縁取られた白化粧の上に同じく銹絵で乾山銘が記されている。口縁部は緑色絵具で皮鯨風の縁取られている。全体を引き締める効果を意図しているのであろうか、これもよく見られる乾山得意の手法のひとつである。見込みに「壽」文字の記された器は他にも大鉢の例があり、吉祥文の食器として注文に応えたものであったのかも知れない。

尾形乾山

尾形乾山(おがたけんざん 1663~1743)

 乾山は、寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれました。兄は画家の光琳です。二人の性格は対象的で、光琳が派手好みであったのに対し乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったといわれています。
 野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、元禄12年(1699)37歳のとき京都市の鳴滝に開窯しました。そして正徳2年(1712)50歳の乾山は、京市内の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけ「乾山焼」として世にもてはやされました。鳴滝時代の末期からこの丁子屋町時代にかけて兄の光琳は絵付で乾山を助け、兄弟合作の作品が数多く残されています。
 享保16年(1731)69歳の頃に江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送りました。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮しました。
 乾山の作品は陶芸作品のみならず書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで文人的な洒脱味があります。陶芸作品においては成形、施釉、焼成は他の専門的な陶工に任せたり、絵付についても光琳との合作以外に複数の専門画家が携わっていたと思われるなど、基本的には工房生産という態勢をとっていたようです。しかし、乾山の指導のもとにつくられたやきものには、その大胆なデザイン感覚とともに乾山特有の芸術性が溢れ、乾山その人とふれあうような親しみが感じられるのです。

乾山銹絵染付掻落絵替汁次 乾山銹絵染付梅波文蓋物 乾山立鶴図黒茶碗 乾山銹絵染付桔梗図筒向付 乾山銹絵染付草文四方鉢 乾山銹絵染付松図茶碗 乾山色絵短冊皿 乾山銹絵絵替長平皿 乾山銹絵絵替四方皿 乾山銹絵染付絵替筒向付 乾山銹絵染付松図茶碗 乾山色絵椿文向付 乾山銹絵染付春草図茶碗 乾山銹絵染付藤図向付 乾山色絵立葵図向付 乾山色絵雪杉図向付 乾山色絵桔梗文盃台 乾山銹絵馬図香合 乾山銹絵染付絵替扇形向付 乾山銹絵掻落雲唐草文大鉢 乾山銹絵草花波文水指 乾山銹絵染付絵替土器皿 乾山色絵槍梅図茶碗 乾山黒楽梅図茶碗 乾山銹絵染付芙蓉図茶碗 銹絵掻落牡丹唐草文香合 撫子図(尾形乾山筆) 乾山色絵和歌陶板 乾山色絵竜田川図向付 乾山銹絵牡丹画角皿 尾形光琳画 乾山銹絵百合形向付 乾山銹絵松文香合 乾山色絵阿蘭陀写市松文猪口 乾山色絵薄図蓋茶碗 乾山銹絵菊図水指 鶴亀図黒茶碗 紅葉図 尾形乾山筆 三十六歌仙絵/在原業平像 尾形乾山筆 三十六歌仙絵/斎宮女御像 尾形乾山筆 乾山色絵菊文手付汁次 三十六歌仙絵/小野小町像 尾形乾山筆 乾山銹絵染付山水図茶碗

解説(開館1周年記念展)

鳴滝時代は,自らの芸術性が遺憾なく発揮され,多くの名品を送りだした時期といえようが,乾山は正徳2年(1712),開窯13年目にして京都の町中である二条丁子屋町に移っている。その理由は種々挙げられようが,経済的な面とともに当時すでに人気が高まりその需要に対応するためであったこともその一つに考えられよう。この時期は五条坂などの共同窯を使った借窯での生産であり,向付などの数物食器が多く焼かれた。乾山は基本的に工房生産というシステムをとっていた。成形,絵付,施釉,焼成など何人かの専門職人の手を経て出来上がるため,同組の作品であっても微妙に作行きが異なる。

この向付は輪花をかたどったもので,素地に白化粧を施し,黄色で一条の輪を,その下に緑の帯を内面と外面にそれぞれ巡らし,見込み中央には「壽」の文字を銹絵で記している。削り込んだ高台内には,銹絵で円形に縁取られた白化粧の上に同じく銹絵で乾山銘が記されている。口縁部は緑色絵具で皮鯨風に縁取られている。全体を引き締める効果を意図しているのであろうか,これもよく見られる乾山得意の手法の一つである。見込みに「壽」文字の記された器は他にも大鉢などの例があり,吉祥文の食器として注文に応えたものであったのかも知れない。

Catalogue Entry

Kenzan's artistic talents were unabashedly expressed in a large number of fine works during the period he lived in Narutaki. In Shotoku 2 (1712), in the thirteenth year of starting his own workshop, Kenzan moved his kiln to Nijo Chojiyamachi in downtown Kyoto. There were many reasons for this move, to be sure, but a major one might have been financial to meet the demand for his increasingly popular works. During this period, Kenzan used communal kilns at Gojo-zaka and elsewhere, and fired many kinds of tableware such as a particular type of ware called mukozuke, shown here. Basically, Kenzan's works were produced in a studio setting, where, for instance, tableware was formed, painted with designs, glazed, and finally fired by different expert craftsmen at each stage of the process. This is the reason why even the pieces in the same set differ slightly.

This set of mukozuke imitates a round flower blossom. A white glaze was applied to all surfaces, then a band of yellow around the upper part of the bowl. Below the yellow, a deep green band on the outside and another on the inside encircle the bowl. On the bottom of the inside, the character 壽, meaning "longevity," is written with iron underglaze. On the outside, in the flat of the shaved circular footing of the bowl, the name Kenzan is written with the same iron underglaze against the background of white glaze. The edge of each bowl's mouth is colored green, perhaps with an intention of tightening the whole design one of Kenzan's favorite techniques. The "longevity" design appears elsewhere, notably on a large bowl. It is possible that these pieces were produced in part to meet the demand for tableware with auspicious meanings.